問:禅の世界に入るきっかけは?修行で学んだこととは?
私がお寺の息子だったことは大きいですね。普通の大学に通い就職活動もしましたが、小さいときからお世話になったお檀家さんに恩返しがしたいという想いはずっとありました。
また祖父の葬式の時、父が涙を流しながらお経を読んでいたのが心に深く残っていて、大切な人を送ってあげることができる仕事に就きたいと思いました。
「どこに出しても恥ずかしくない自信…」
修行では、まず指月庵老師という最高の指導者に出会えたことがよかったと思います。それまでの私は、「これだけは誰にも負けない」とか「これだけ一生懸命にやった」というものが持てなかったのですが、老師の下で、どこに出しても恥ずかしくない修行を積むことができ、自信を身につけることができたと思っています。
「厳しい修行の中だからこそ…」
それから修行を通してふたつ、大切なことを学びました。ひとつは、本当の優しさということです。
摂心(せっしん)という一週間座禅に専念する大変厳しい修行が終わった後、厳しかった先輩が自分も疲れ果てて休みたいのに励ましてくれたり、ふたりだけの時にはいろいろと親身になって言葉をかけてくれました。また、供給(くきゅう=食事を給仕する修行)がうまくできなかった時、普段は接することもできない古参の修行僧が休息日を返上して、私に教えてくださったこともありました。厳しさの中にある優しさこそが本当の優しさであると教えられました。
もうひとつは、本当の信頼関係ということです。
ある時、夏場の仕事でミスをして、他が風呂に入っている間一時間以上も土下座で叱られたことがありました。おかげで、風呂に入れず夜の座禅に入ることになったのですが、叱った人も自分の風呂の時間を削って私を叱ってくれたわけです。いくら厳しくても、こいつをなんとかして伸ばしてあげたいと思って本気で叱ってくれる人に恨みはないですね。その人は、私のために悪者になってくれたわけです。修行という厳しい時を共有しているからこそ、本当の優しさを信頼を感じることができたと思います。
「食事のパワー…」
もうひとつは、食事のパワーですね。食事のことを薬石と言って、ご飯は薬としてとります。摂心中、座禅三昧になると身も心も疲れ果てるのですが、食事をとらせていただくと見違えるように元気になったという経験を何度もしました。食事のありがたさを知りました。
問:禅ブームと言われていますが、なぜ今、禅が注目されている?
「自分とちゃんと向き合いたい…」
情報化社会にあって、自分を見失ってしまっている人が増えているのではないでしょうか。だから本来の自分を取り戻したい、自分とちゃんと向き合いたいと思って座禅をする方が多いのではないかと思います。修行道場では、テレビ、携帯、新聞が一切ない世界に入るんですね。その中にいると、そうしようと思わなくても自然と自分に心が向いてくるんです。
禅宗とは、本来「仏心宗」であり、自分に備わっている仏の心を体感することをめざすわけですから、そういう禅修行の世界が今の人たちの心に響いているのかもしれませんね。
「一回ではなく回数を重ねて…」
座禅も、できれば一回だけではなく回数を重ねてやってもらえるといいですね。1年目で見えなかった世界が2年目で見えてくる、2年目で見えなかったものが3年目で見えてくるということがありますから。継続的にやってほしいです。東際寺では、定期的にはやっていませんが、お話があった時何回か座禅会を行っています。これからもやっていきたいとおもっています。
その時、ただ座るだけではなく、本物の修行の衣を着て、その重さを実感してもらいながら座るなど、禅の修行を少しでも感じてもらえるような工夫もしたいと思っています。
問:禅って難しいイメージ。もっと親しめる方法はありますか?
「座禅だけが禅定の道ではなく…」
百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師という方が、「動中の工夫、静中の工夫に勝ること百万倍なり。」ということを言っています。
動中とは肉体労働(作務)のこと。労働は座禅に勝るくらい大事なことだという意味です。
大切なのは、心をひとつの対象に集中して、妄想や雑念を棄て去ること。これを「禅定(ぜんじょう)」と言いますが、座禅だけが禅定の道ではなく、日々の労働のなかでも禅定を見いだすことができると思います。
「必死にバットを振っていれば、それが禅定…」
ある和尚さんが浅草でも名人の曲芸を見て「ああ、あれが一転すれば禅じゃがな」と言ったそうです。芸の上では「禅定」が入っているのに、芸が終わると元の木阿弥で智慧に到らないと嘆いたというお話です。
野球でも、必死になってバットを振っていれば、それは「禅定」だと思うんです。野球禅とまで言わないまでも、禅の精神に自らの技術を加味して野球道を確立したのが、あの川上哲治さんです。理論に沿って練習することは技術を身につける近道ではあるが、最終的には徹底した練習により来た球と一体になる、ゴロと一体になる境地にならなければならない、まさに禅定の境地に達しなければならないと言っています。
問:座禅をする時、どういう心得が必要ですか?
座禅の基本は、調身、調息、調心です。
調身
まず、きちんとした姿勢。自分を大きな貯金箱だと思い、頭からお金を入れると肛門からチャリンとお金が落ちるイメージで座ります。自分ではしっかり座っていると思っても十分ではなく、のけぞるくらいの気持ちで座るときれいに座れます。
調息
息は、ただ吸って吐くのではなくて、吐き切ってから吸う。吐き切ると自然に空気が入ってきます。吐く時は、数を数えながら吐くんですが、数え方も。普通にひとつ、ふたつ…ではなく、ひと一つ、ふた一つと深く数える。十まで数えてまたひと一つから始めます。
調心
そして、吐き切る息に自分がなりきる。吐く息と自分を一体にします。座禅を組むと足の痛みに耐えられないという人がいますが、終わった後の心地よさを想い、痛みは痛みとして味わうことですね。暑い時は暑さとなりきり、痛い時は痛みになりきる。禅の教えは「なりきる」がキーワードなんです。
問:自殺をしようと思っている人に、どんな言葉をかけますか?
まず、自分の命はけして自分のものではなく、多くの方に支えられて生きているものだということです。自分で、命を絶つというのはそういう人たちへの裏切りだということです。
それから、自殺を考えるとはなんらかの問題があって、そこから逃れる手段として思うのでしょうか、梶原逸外老師という方がある時、「お前さん方が、悩みだなんだと言っているのは、そんなものは禅の世界では悩みでもなんでもない。苦しい問題と向き合っていると、ある時ふと超えられるものだ。」とおっしゃいました。私はそれを信じて、とにかく問題に対してもがいてほしいと思います。
問:いじめられている子に、いじめている子に、ひとことを。
いじめられている子供たちへ。
とにかく自分の強みを見つけてほしい。これだけは誰にも負けないというものを作ってほしいです。私自身、いじめられた経験がありますが、今でもいじめていた人には負けないという思いがあります。それを自分の力に変えてほしいですね。
いじめている子へ。
いじめというと、いじめる方が強くていじめられる方が弱いという上下関係になるようですが、人生の中ではその上下関係がずっと続くわけではなくて、どこかで逆転することもあります。かつていじめていた子がいじめられていた子に助けを求めることだってあるかもしれない。人はいじめられた経験というのはけして忘れません。いじめるということが、いつか自分にふりかかってくること、自分の首を絞めていることだと分かってほしいですね。
それから、いじめを見ている人へ。人はつらい思いをしている時に助けられたこともけして忘れません。見て見ぬふりをせず、いじめられている子に手を差し伸べる勇気を持ってほしいです。
問:これからのお寺や禅宗は、どう向かうべきだと思いますか?
お寺を夢を持てる場所にしたいですね。まず、これからは子供だと思うんです。学校では教えてもらえないような、生活の基本的なこと、掃除の仕方とか橋の持ち方ひとつにしても、とても大切なことだと思うんですね。そういうことを知ってもらえるような活動もしていきたいですし、お寺がそういう場所でありたいなと思っています。
それから、お寺とは、建長寺がそうであったように、そもそもさまざまな学問を修得する学びの場であったわけです。そういう意味での修行の場でありたいと思いますね。いろいろな世界で活躍されている人を招いて話を聞くなどを通して、自分もがんばろうとか、元気になってくれる場になれるんじゃないかと思うので、そういう可能性を探っていきたいと思っています。